自分の感受性くらい、どのようなものなのか知っていたい。

「感受性って、やっぱり時代に規定されるんですね」

穂村弘が文庫本のインタビューで答えていた。この言葉が気になっている。

私が育った時代はどのような感受性を規定しているのだろう。

 

若いときに起きた社会的事件をどのように感じたのかで、大人になってからの感受性方向性を決定づけていると思うのです。

 

1995年、この年に大学生で沖縄とは違う環境で何物かになろうとして、足掻いていた時期です。今でも大きな事件として覚えているのは

 

阪神・淡路大震災

オウム真理教地下鉄サリン事件

沖縄県宜野湾市の少女暴行事件

 

当時、日記をつけていたのだけれど、残っているのかしら。実家で探してみよう。

おいおい、整理したみたい。

 

「自分の感受性くらい」は茨木のり子の詩です。「自分で守れ、バカ者よ」が続きだった(と思う)です。

 

人生の後半に向けて、どのように生きていきたいかと問われたら、やはり「やり残しの無い人生」を望みたい。私生活での「もちもの減らし」をコソコソと初めて見たりはしているのですが、目標のすがたがいまいちはっきりせず、整理は進みません。

 

やり残しの無い人生=やりたいこと+やるべきこと+ひまつぶし、のバランス。

 

やりたいこと

忙しいだけの生活は好きじゃない。一日の中にボンヤリとした時間を確保したい。

それから、幼少期の生活スタイルが私の原体験なのではないかと疑っているので、それをもう一度再現してみたい。

それが、二拠点住居。都市と田舎。平日と週末。あるいは隔週の生活。

 

やるべきこと

ムダだと思うことをやめること。これからの展開(シナリオ)のために必要な事を洗い出すこと。シナリオを書いてみること。試しに期間限定でやってみること。

 

仕事しているヒマなぞない!っと言ってみたい。

 

今日は決意文になっちゃった。またねー。