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話して面白い彼氏をさがしたい!誰もきいちゃいないけど。

自分と関係ない人達がおしゃべりしているのを聞く楽しさってのは、都会ならではの楽しみだと思います。東京に住んでいたときや那覇にまだ喫茶店というものが存在していたときは、この会話の盗み聞きが楽しみのひとつでした。

www.youtube.com

(たぶん、この映画の監督もそういうこと好きですよね、きっと)

 

親しい人同士の会話は、盗み聞きしている私にはまったく意味がわからなかったりするのですが、たのしそうににしゃべって幸せそうな人達をみるのは、幸せな感じや楽しい感じが伝わってきて、なかなかいいものです。

 

私がブログ読みにはまったのも、ブログの文体がこの「赤の他人が楽しそうに話をしているのをそばで聞いている」という質感?が似ているからだと思いました。

おそらく、ブログは誰かが読んでいるという想定で書かれている文章がほとんどだと思われますし、ブログ文体はブログ登場以前の何の文体に似ているかと言えば、友人宛の手紙で書く文体と似ていると思います。ただ、手紙は自分に来た手紙しか読んだことがないので、あくまでも印象です。

実際、このブログも一時期アクセスが増えた時期がありまして、その時から末尾に「またねー」を書くようになったのですが、このくち癖(書き癖かな)私用メールでいつも使っている言葉でした。やはり読んでいる人がいると思うと、つい、使ってしまいます。

 

また、余談なのですが、沖縄の方言には日本語の「さよなら」にあたる言葉がないといわれています。(人から聞いた話で、本当なのかはわかりません)私の実感として沖縄の人は「さよなら」を言うのがとても苦手です。本土から移住してきた人も「沖縄の人はさよならの挨拶をしない」というようなことを言っていました。

たいていの人は「また、こんど(次)ねー」とか言って、中国語の「再見」と同じ意味のことがおきなわではさよならにあたります。

「さよなら」は日本語の中でもトップテンに入る、美しい言葉だと思うのですが、それを使うのが苦手なことは、ちょっとさみしい。

 

と、話のホネをボキリと折るのはここまでにして、、、。

 

話を戻しますと、ブログ文体は親しい友人に宛てた手紙のような文体で、それは都市の中で赤の他人の会話を聞くような楽しさを持っている。というもの。

 

私はChikirinの日記の大ファンですが、そのひとつの理由は、ちきりんさんの語りかけるような文体が好きなのです。内容が理解できないエントリも多数あります。が、めげずに読んでいます。自分にはなじみのないトピックを扱っている日でも一度は最後まで読み通しています。面白いブログを読んでいると言うより、Chikirinの日記を読みに行ってます。

意味がわからない文章を仕事でもないのに読み通すのは、読み手も体力を使いますが、文体のパワーによるところも大きいのではないかと感じています。

 

同じような理由で好きなのだと気がついたのが、

Denki Groove - Wicked Jumper [Live at FUJI ROCK 2006] - YouTube

これでして、こちらはより「赤の他人の会話」を聞いている気分になります。

ま、歌の部分、意味がわからないです。「かっこいいジャンパー」を連呼していますが、それがどうしたのかさっぱりわかりません。が、聞いていて気持ちいいので最後まで聞いてしまいます。そうやって聞いていると「言いたいこと(テーマ)はないけど何か言いたい、茶化したい」という気分だけはなぜか伝わってきて、そこが気に入りました。

で、ここからは私の当てずっぽうなのですが、この曲から伝わってくる気分は10人聞いたら10人が違うことを受け取っていると思うのです。つまり、何を感じたか(感受性)については一般化できませんし、また、そのように作られてもいるようです。インタビューで読んだ覚えがありますが、探せない、、、。

 

 

Chikirinの日記は、メッセージをはっきりと打ち出し、それをよく伝えるような文章を書き、価値観のあう読者を引きつけようとしています。

電気グルーヴは、メッセージはあるのかないのかはっきりせず、個々人がその時々で違うように受け取れる曲を作り、誰を引きつけたいのかはよくわかりません。ま、若い人に聞いてもらいたいのかな。

 

このように、共通点はほとんど無いような2者ですが、わからなくても最後まで読ませる/聴かせる、というコンテンツパワーの質が似ているのと、コンテンツと受け取る側(リーダー/リスナー)との距離感が似ている。近い!のです。

Chikirinの日記も難しいことを書いているエントリでも、隣に住んでいるおばちゃん(すいません)と社会で起きていることを話している気分になるし、電気グルーヴは隣の兄ちゃんたちがなんだかよくわからないがご機嫌に騒いでいる、という印象です。

あくまでもコンテンツから受ける印象であってご本人達がその様であろうということではありません。

 

コンテンツ自体が対話文で書かれているというか、民主的/デモクラティックな文章といいますか、うーん、表現が見つからない。

Chikirinの日記はちきりんと話している気分になるし、電気グルーヴの場合は話している場所に一緒にいるという感じ。この感じが「近い!」と感じるのです。

 

両者の読者層や客層が重なっていることは無いと思いますが、両者が読者層/客層にむけての働きかけ方が似ているのかもしれません。そして、その働きかけ方がとてもフラットな感じです。

実際ちきりんさんは「子どもだった頃の私」にむけて書いているとエントリの中でもおっしゃっていました。

電グル(もう面倒なので今後は略称で)もニーズによって作るより、できたものを渡すスタイルだ、とのインタビューがありました。ファンの存在はありがたいし、(存在を)認めているけどそこに向けては作れない、という事なのでしょう。(このインタビューも探せません。)

このような態度がフラットだと感じるし、対話的、民主的、などなどと感じるのです。

 

そろそろ、けつろんを出したいのだが、、、。えーっと。

 

会話や対話の文体として、みんなもっとちりきん文体(勝手にすいません)や電グルの歌詞/曲の文体(勝手にすいません)を真似した方がいいんじゃない?真似するのが問題あるなら「手本にしましたとか」まずいかしら?

両者とも、もっとフォロワー(追従者という本来の意味のほうです)がいてもいい気がするのですが。

 

私が知らないだけでいるのかな?

 

電グルの場合は音楽なので、表現手法が研究されても、それを実現できる人は限られてくるでしょう。

ちきりんさんはテキスト主体の表現です。表現手法が共有化されたときのインパクトはものすごく大きいと思うのですが、大げさでしょうか?

読みやすい文体、読ませる文体とかもっと研究されて、普通の人にもノウハウが行き渡るようになると、話して面白い人が増えて、よい世の中になると思うのです。

 

話が面白い人、ではなく話して面白い人、です。「話して面白い人」が多い方が良い世の中。

 

あ、そうだ、どんな人と結婚したいかと聞かれたらこれで答えよう「話して面白い人」

遠回りしすぎ?

 

たまねー。