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愛と暴力について古典的名作

戯曲をいくつか平行して読んでいるのです。

 

ロミオとジュリエット (新潮文庫)

ロミオとジュリエット (新潮文庫)

 

 

この古典、ずっとラブストーリーだと勘違いしていたのですが、お話しの背景は一つの街(イタリア/ヴェローナ)の中で対立する家(集団)が和解する話だった。

最後では対立していた家同士の親がお互いに子どもの銅像を建てるという話をして幕がおります。

バルコニーでのジュリエットの独白場面が有名なのでてっきりラブストーリーだけの物語だと勘違いしていました。

 子を亡くすという人にとって最大の悲しみを経ないと「対立の無意味さ」さえ理解しないという人の愚かさが示されているのだと思いました。

 

それでね

この古典の名作を読んで(まだ途中ですが)

いくつか考えたことがあるのです

 

ラブストーリーって何か障害がないとドラマにならないのだな、という平凡な発見と、

もう一つ

集団間の和解には血を流す必要=争い、がある(かもしれない)。という発見。

対立を無意味なものにするためのプロセスの一部が「争う」ことなのか?と感じたのです。争ったり、勝負して決着をつけるということは、それが最終的な解決の手段ではなく、「対立を無効にする=和解」のための一つのプロセスなのではないか?と思うのです。

つまり、対立から和解に向かう時に、「争う」がないと人の気持ちって納得できないというか、収まりがつかないものなのではないかと感じたのです。

古くは部族間で戦争をしていた時代から「戦争の方法」が決まっていたように「争うことによって、気持ちが収まることがある」は人の性質として知られていたのではないでしょうか。

けんかをしても良い日、が行事として決められていたり、人間の暴力性をコントロールするために様々に知恵が絞られていたのではないかと。

 

ここまでは、今まではこうだった、というお話しで

さらに続けますと

 

これからは人の英知が「フィジカルな戦争」を経ないで対立構造を無効化すること、に使われて行くのだろうと考えたとき、アメリカが国をあげて取り組んでいる(だろう)通信記録をトレーシングし、分析して、テロ行為を発見する=対立の無効化っていう軍事技術はやはり世界で一番なのだなと思いました。

これって、もう戦争とか軍事力のコンセプト自体が今までのものとは違う。

戦争は国家間の争いの解決の最終手段ではなく、ある一国が自国に有利な状況を作る為の一つの手段、プロセスになっている。

 

飛躍した話はここでいったん終了しましょう。

 

それで、最初の古典的名作、ロミオとジュリエットに戻りますと、この戯曲で示されている世界が「愛と暴力」がセットになっているように見えました。

 

愛と暴力って質的に近いの?

 

どちらも密室で行われることが多いから、かしら。

 

愛と暴力の近似性って世間ではよく知られていることなのでしょうか?

愛も使いどころを間違えるととても暴力的な力になることは、世間である程度の時間を過ごしている人なら見聞きしたことがあると思います。

そのことについては、また別に書きたいと思います。

 

今日は考えを整理しただけで、結論は出ません。

 

「今の愛と暴力はこうなっている」と示すことはできるかもしれません。

 

シェイクスピアの時代とはちがって

神様も(女)王様もいなくなって

地球上には楽園もすでに存在しません

トトロのような生き物のための場所はなく

世界の夜さえ隅々まで明るくなりました

 

 このような世界を背景にして、ひとりの人がどのような「愛と暴力」をくぐり抜けていくのか、そのサンプルをたくさんみたい。

 

もう、眠いや。またねー。